歴史

2014年6月24日 (火)

モトチーナでレッツゴー本能寺?

読売新聞によると、レッツゴー本能寺こと本能寺の変の黒幕ともささやかれてる、モトチーナこと長宗我部元親の新たな書状が見つかった事で、モトチーナ黒幕説に注目が集まってます(以下引用)

本能寺の変、原因は四国にあり?元親の書状発見
 明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(天正10年=1582年6月2日)の直前、四国の戦国武将・長宗我部元親(1539~1599)が、光秀の重臣・斎藤利三(1534~1582)に宛てた書状が、林原美術館(岡山市)所蔵の古文書群から見つかったと、同美術館と岡山県立博物館が23日発表した。

 書状は1582年の5月21日付で、「東州奉属平均之砌、御馬貴所以御帰陣同心候」(甲州征伐から信長が帰ってきたら指示に従いたい)と記し、四国を攻めようとする信長に恭順の意を示す内容。

 信長は天正3年=1575年頃、元親に四国を治める許可を出したが、後に土佐と阿波の半分しか統治を認めないと翻意。光秀は、信長と元親の仲介役を務めていた。
 
 本能寺の変の原因には諸説あり、信長が四国統治方針を変え、光秀が面目をつぶされたことから謀反を起こしたとする「四国説」がある。書状はこの間の経緯を示すもので、同博物館などは、四国説を支えるとみている。(引用ここまで)

これ普通に読めば、「許してちょんまげ」って事ですよね。これだけで「四国説」が確定する訳はないわけですし、これで決まりって騒ぐのもどうかしてます。唱えるのは勝手ですけど、それならその人物もしくは集団が、信長を倒して何か得する事があったのかを証明しなければいけません。モトチーナの場合は四国統一なんでしょうけど、その先はって聞くと、大抵の論者は「うっ」となってしまいます。

そもそもモトチーナって過大評価され過ぎだと思いますね。一代で四国統一したのはさておき、彼女もとい彼は長期的な天下ビジョンを持っていませんでした。だから秀吉に膝を屈して土佐以外の三ヶ国を取り上げられたわけだし、もっと早くギブアップしていたら土佐と阿波は安泰だったわけですから、そうなったら幕末史も少しは変わっていたかもしれませんけど。この人を大河ドラマの主役にしようという声もありますが、2時間ドラマが関の山でしょう。

ちなみにマンガやゲームに出るモトチーナは大抵、オトコノ娘かイケメンになってますが(『殿といっしょ』のモトチーナは、明らかに『ストップ!ひばりくん』の影響を受けてた)、実際はこんなんですから、期待しない方がいいと思います。だからこそ腐女子歴女一部腐男子の皆さんは、妄想200%全開しちゃうんでしょうけど・・・
 

 

2014年6月 9日 (月)

だから戦争はいかん

スポーツ報知に掲載された、横浜の中学生が被爆した語り部さんに暴言を吐いたという記事は、読んでてとても悲しくなりました(以下引用)

被爆語り部に暴言、修学旅行で横浜市の中学生
 修学旅行で5月に長崎を訪れた横浜市の公立中3年の男子生徒5人が、爆心地周辺を案内しながら被爆体験を話していた語り部の森口貢(みつぎ)さん(77)に「死に損ない」などの暴言を吐いたことが7日、分かった。

 森口さんによると、被爆者らが5月27日、3年生119人をグループに分け、爆心地周辺の被爆遺構を案内。爆心地の北約700メートルにあり、甚大な被害を受けた山里小学校で森口さんが説明を始めたところ、グループから離れて行動していた5人の生徒が「死に損ないのくそじじい」と叫んだ。森口さんと引率の教職員が注意したが、5人は周りの生徒にも「拍手しろ」などと言って妨害、暴言を続けたという。

 森口さんは翌日、手紙で学校に抗議。さらに学校に電話したところ、校長は「大変申し訳ない」と謝罪したという。

 「長崎の証言の会」のホームページなどによると、森口さんは国内だけでなく、米国に出張して現地の高校生たちに被爆体験を語るなど精力的な活動をしている。森口さんは取材に「こんな経験は初めてで悲しい。戦後69年がたち、戦争の悲惨さが分からない社会の雰囲気の中で子供たちが育っているのではないか」と話した。

 校長によると、暴言を吐いた生徒の1人が案内前、森口さんから「聞く気がないのなら出ろ」と厳しく繰り返し注意されたと明かした上で「それでも生徒がやったことは許し難い。被爆者をおとしめるつもりはなかったと思うが、反省するまで粘り強く指導したい」との考えを示した。(引用ここまで)

謝罪すべきは校長ではなく5人のバカ中学生でしょう。これではどんなに悪いことしても、大人がかばってくれるという歪んだ発送が芽生えてしまいます。日頃からロクな教育が行なわれてない事が浮き彫りになりましたな。尤も私立校でも似たようなバカはいますが。

ヤフコメでも「中学生にもなれば善悪の区別くらいつきます。こういう輩は顔、名前を晒してやってもよいと思います」「親がマトモな躾をしてないんだろうな」「こんなガキを産んだ親も、たかが知れてる」といったコメが並びました。おそらく親子共々顔出しはないでしょうから、そこは『闇金ウシジマくん』に出てくるクズな人達の顔で代用するとして、今回キタコメはコレ。

「語り部の方が、聞かないのなら出ていくように促した事が、暴言を誘発してしまった、と校長の言葉が出ていたが、それではまるで、語り部の方の言い方が悪いと言っているように感じる。この校長も言葉に気を付けるべきだ」

まぁ学校の校長なんて別に人格者じゃありませんからね。だから通り一辺倒の謝罪しか出来ないんでしょうけど。いっその事「お国の為に散った兵隊さんの気持ちに少しでも近付く為」として、1週間自衛隊に体験入隊させてレンジャー訓練とかやらせたほうがいいかも知れません。もちろん昼夜通しで。あるいは将来に備えてム所で配膳や掃夫をやらせるとか。その方がよほど平和の尊さを体験できるかも知れません。


2011年4月17日 (日)

あの城はなぜ外れたか

日刊スポーツが隔週で掲載してる「日本史なんでもランキング」、その第11回目のテーマが「あなたの好きな城は?」というものでしたが、そのランキングが発表されました。

1位:姫路城(492票)

2位:松本城(225票)

3位:熊本城(217票)

4位:会津若松城(166票)

5位:名古屋城(145票)

6位:小田原城(131票)

7位:大阪城(122票)

8位:弘前城(76票)

9位:安土城(74票)

10位:犬山城(66票)

世界遺産・国宝の姫路城が1位なのは当然として意外なのは、国宝4天守の中で彦根城が入ってない事です。ここも一時は世界遺産にという声があったのですが、最近は話題にも上りません。ひこにゃんとそのモデル(?)とされる井伊直政など、人気の要素は揃ってるのですが、井伊直弼ゆかりの城という事が、災いしたのでしょうか?同じ佐幕派の会津若松城は4位にランクインしてるのに(これも白虎隊人気かも知れないけど)

更に言えば現存12天守の中でも、ランクインしたのは国宝の3天守と弘前城のみです。弘前城は桜の名所という事で、テレビによく出てくるからかも知れませんが(さすがに今年は余り出てないが)、同じ桜の名所である松江城がランクインしてないのは、やはりメディアの露出差なのでしょうか?逆に高知城がランクインしなかったのは、脱藩した坂本龍馬と絡めるのが難しいからだと思いますが。

ちなみに現存12天守の1つ丸岡城は、現在放送中の大河ドラマ『江 姫たちの戦国』と縁のある城ですが(柴田勝家が城主なので)、同作がワースト1大河の名を不動のものにしつつある今、次に好きな城ベスト10をやってもランクインは難しいかも知れません。個人的には好きな城なのに

2010年9月12日 (日)

ベストヒストリカルヘアメガネドレッサーぜよ

いつのまにか『龍馬伝』が寺田屋事件まで進んでました。ここ最近視聴率が落ち込んでいましたが、クライマックスに向けて再びエンジンが掛ってきたようです。そんな中9月9日付(8日発売)の東スポには、「龍馬がダブル1位に!!」と題した記事が掲載されました。

これはセイコーオプティカルプロダクツ社が、眼鏡着用者1322人に「眼鏡が似合いそうな歴史上の人物」としてアンケートを取った結果、龍馬が1位になったとの事です。同社では「武士と眼鏡は似つかわしくない。『龍馬伝』の影響もあるのではないか」と分析してますが、個人的にはじぇんじぇん似合わないと思います。申し訳ないけど。ちなみに2位~5位は織田信長、夏目漱石、聖徳太子、徳川家康と続きますが、この内実際に眼鏡を持ってたのは家康だけです(久能山東照宮で保存)。

ついでに言えば明治以前の日本で眼鏡を持ってたのは、家康と伊達政宗(霊廟の瑞鳳殿で保存)、大内義隆(戦国時代の山口の領主。フランシスコ・ザビエルからカトリック布教の見返りとしてもらったが、現存せず)の3人だけです。いずれも権力者が西洋人からもらったという点では一致しており、改めて眼鏡が一般的な道具でなかった事が伺えます。

もう一つリーブ21が589人に行なった「歴史上の人物で、一番髪型がカッコいいのは誰?」というアンケートでは、ここでもざんばら髪の龍馬が1位。2位はオールバックの土方歳三、3位はチョンマゲの信長、4位はスポーツ刈り(?)の西郷隆盛、5位はこれもオールバックの福沢諭吉となってます。同社では「龍馬は浪人という自由な身分だったので、自由な髪形をしてたのでは」と分析してますが、だったら似たような髪型の足利尊氏はどうなんだとツッコミたくなります(と思ったら昔の教科書に載ってた、ざんばら髪でポン刀持って馬乗ってるあのオッサンは、尊氏じゃないというのがほぼ確定してる事を思い出したので、ツッコミは中止)

個人的に歴史上の眼鏡ドレッサーを上げると、坪内逍遥でしょうか?理由は眼鏡の奥に何かとんでもないものを隠していそうだから。で、歴史上のヘアドレッサーは一休宗純。理由は坊主なのに髪伸ばしてるから。さて、皆さんの選んだベストヒストリカルドレッサーはこの中にいたでしょうか?

2010年5月22日 (土)

ど・ど・どりこの大爆笑~

5月21日の読売新聞朝刊を読んでたら、江戸東京博物館の展示物紹介記事の中に「どりこの」ポスター、という気になる文字を見つけました。

それによると「どりこの」とは、昭和初期に大流行した滋養飲料の事であり、名称の由来は開発者の医学博士・高橋孝太郎の「こ」、助手の野口氏の「の」、そしてドイツ人らしい共同開発者の名前の一部「どり」を組み合わせて「どりこの」と名付けたそうです。ブドウ糖、果糖、アミノ酸が主な主成分で、そのままでは甘すぎて飲めない事から、水やお湯で5~6倍に薄めて飲むという、カルピスに近い飲み物でした。ちなみにカルピスの発売開始は大正8年(1919年)。三越がどりこのを発売したのは昭和4年(1929年)ですから、多少なりともカルピスを意識してたのかも知れません。

このどりこのにハマったのが講談社の創業者、野間清治。もともと大の甘党という事もあってか愛飲し、ニャンといつの間にやら独占販売権まで取得してました。後は出版社の人脈を生かして、閣僚や有名芸能人を多数宣伝に動員。1本1円20銭(現在の額で約2200円)と高値ながら、最盛期には年間230万本も売るほどのヒット商品となりましたが、戦争の勃発で砂糖の入手が難しくなり、昭和19年(1944年)頃に販売を中止。その後は知る人ぞ知る幻の飲料となってしまいました。

もう一人どりこのと縁の深い人物が、コラムニスト兼気象予報士の泉麻人。過去にテレビ番組の中で、講談社の倉庫から借りてきた実物のどりこのとご対面した事もあります。泉氏の著作『コラムダス』(新潮文庫 絶版)によると、それは黒ずんだ重厚なガラス瓶に入った、怪しい古酒めいたレモン汁がくすんだような色合いだったとの事ですが、さすがに試飲はためらったそうです。また、別の著作(『ニッポンおみやげ紀行』 講談社文庫 絶版)によると、長野には「どりこの焼」というおやきに似た菓子があるとか。飲料のどりこのとは直接の関係がない事から泉氏は、「どりこのが一種の流行語として使われてたのではないか」と分析してます。

昭和40年代前半まで、企業は新製品の宣伝の為に、自前でタレントや楽団を使ったキャラバン隊を全国に派遣させてましたが、もしかしたらどりこのも、軽快な歌に合わせて宣伝してたのかも知れません。それがタイトルにある「ど・ど・どりこの大爆笑~」だとしたら、それが某国民的お笑い5人組の番組に影響を与えたらしいという説は、一理あります(って、もちろんウソです)

このポスターは今月26日まで、江戸東京博物館の5F第2企画展示室で展示されてるので、興味のある方は一度観てはどうでしょうか。なお、勝手ながら明日5月23日の更新は、お休みします。ご了承下さい。

2010年3月16日 (火)

ついに「現代」も歴史の中に

千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(通称、歴博)に第6展示室・現代がオープンしました。

1930年代~70年代を展示の対象にしたこの展示室。「戦争と平和」「戦後の生活革命」という2つの大きなテーマが、今の日本人にどのような影響を与えているのかを、実物大復元や模型・映像資料等をもとに紹介する、歴史博物館としては極めて異色の展示室です。

『ALLWAYS 三丁目の夕日』のメガヒット以降、昭和30年代をモチーフにした展示会やフードパークは必ず当たると言われてますが、この展示室ではそうした所では見られない高度成長の光と影にスポットを当てています。実物大で復元された団地のダイニングキッチンとダムの底に沈んだ集落の模型は、その最も足るものと言っても過言ではありません。

欲を言えば80年代(つまりカルチャー時代の到来と昭和の終わり)までは取り上げて欲しかった所ですが、おそらくほとんどの人が教科書でも見るだけで終わった領域に踏み込んだだけでも、進歩と言えるのかも知れません。

2010年3月10日 (水)

鎌倉の隠れイチョウ倒れる

3月になっても全国的に異常気象が止まりませんが、そんな中残念なニュースが入りました。既に報道などでご存知の通りですが、鎌倉市の鶴岡八幡宮境内の大イチョウが倒れました。

樹齢千年とも言われるこのイチョウ、神奈川県の天然記念物にも指定されてますが、今から791年前の承久元年(1219年)1月27日深夜、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が自身の甥で八幡宮別当(責任者)の公暁に暗殺された際、イチョウの影に隠れていた公暁が「親の敵はこうして打つものだ」と叫んで切りかかったとされる事から、「隠れイチョウ」の異名を持っています。

もっともイチョウの話は、事件から400年以上経過した江戸時代の書物に書かれてる話なので、実際に隠れていたのかは不明ですが、学習マンガや歴史番組では定番シーンの一つとして知られているだけに、ほとんどの人が「史実」と受け止めてるようです。

樹木の専門家によれば修復は不可能との事。鎌倉市は世界遺産への登録を目指して活動していると聞きましたが、その最大の目玉が消えてしまった事で登録に向けて大きな影が落ちるのは、避けられそうもありません。と同時に千年も立ち続けた大木を、いとも簡単に押し倒す自然の脅威の前では、人間などちっぽけな存在なのかも知れません。